アンドリュー・テイラー・スティルはオステオパシーの創始者であり、またその哲学の父でもあります。
彼は19世紀のアメリカの医師で、現代医学の手法に不満を感じ、独自の治療法を模索しました。
スティルは1874年にオステオパシーを創設し、その基礎となる理論と実践法を開発しました。
彼のアプローチは、体が自己治癒能力を持っているという考えに基づいており、そのためには体全体の調和と均衡が必要であると考えていました。
したがって、彼の治療法は体全体を対象としたもので、疾患の根本的な原因を特定し、それを取り除くことに重点を置いています。
彼はまた、初のオステオパシー学校をミズーリ州のカークスビルに設立し、オステオパシーの教育と実践を推進しました。
この学校は名前こそ変わっていますが、現在も運営されており、オステオパシーの教育と研究の中心となっています。
スティルの影響は現在でも続いており、彼の考えはオステオパシーの基盤として広く受け入れられ、世界中で実践されています。
スティルの生い立ち
アンドリュー・テイラー・スティル(Andrew Taylor Still)は、1828年にアメリカのバージニア州で生まれました。
彼の父、エイブラハム・スティルは牧師であり、また同時に医師でもありました。
これが、若きスティルが医学に興味を持つきっかけとなりました。
若い頃、スティルは先住民族から自然と身体の関係性、植物による治療法などについて学び、その経験は彼が開発したオステオパシーの基盤を形成しました。
スティル自身も、1861年から1865年までのアメリカ南北戦争で陸軍の外科医として従軍し、直接的な医療経験を積みました。
西洋医療への疑問
しかし、1864年に3人の彼の子供たちが脳脊髄膜炎で亡くなったことで、彼の人生は大きな転換点を迎えます。
この悲劇は彼に深い衝撃を与え、当時の西洋医学が無力であるとの認識を彼に強く持たせ、新たな治療法の模索に彼を駆り立てました。
新たな医療の発見
そして、1874年にスティルはオステオパシーを創設しました。
彼は体の自然な治癒力と全体性、すなわち体全体が互いに関連し、互いに影響を与えるという考えを基にした新しい医療方法を提唱しました。
彼はまた、疾患は体の自然なバランスの乱れから来るという観念を強調しました。
オステオパシーの発展
スティルの努力は、1892年に世界初のオステオパシー学校であるアメリカン・スクール・オブ・オステオパシー(現在のA.T. Still University)をミズーリ州カークスビルに設立することで結実しました。
そして現在へ
その後もスティルはオステオパシーの発展と普及に尽力し、1917年に彼が亡くなるまでその精力的な活動は続きました。
彼の死後も彼の理論と実践は引き継がれ、現代でもオステオパシーは広く認識され、患者の治療と生活の質の向上に寄与しています。